8月の面白かった本・7冊
8月に読んで面白かった本をまとめました。
1、『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
- 作者: エーリッヒ・フロム,Erich Fromm,鈴木晶
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1991/03/25
- メディア: 単行本
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愛についての哲学書。「愛」というのは生きてる人の多くが関心のあるテーマだと思うのだけれど、「愛」というのは定義するのがなかなか難しい。
本書でフロムは「愛は技術である」と説いている。技術である以上、それは英会話やプログラミングのような"スキル"と同じように、その仕組み(理論)を学んで、それを自分で再現できるように練習を重ねれば、「愛すること」は体得できると話を進める。
つまり、愛は人間の初期設定から備わっているわけでなく、育むもの、そして今からでも育めるもの。私は愛が分からなすぎて「どこかで落としちゃったのかな?」と悩んでいたので、まさに目から鱗だった。
フロムが説く「愛とは何か」の理論をぜひシェアしたいと思ったのだけど、書き出したら軽く2000文字を超えたので今回は諦めた。それぐらい得るものが多かった。別の機会にぜひ1つの記事として再挑戦したい。
ちなみに、『自分の人生に大きな影響を与えた本』が今のところ3冊*1あるのだけど、『愛するということ』は栄えある4冊目にランクインした。他の3冊同様、自分に染み込ませるように何度も開いて読み込むだろう。
2、『天才はあきらめた』山里亮太著
- 作者: 山里亮太
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2018/07/06
- メディア: 文庫
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この本はtelling,で連載されている佐藤友美さんの記事で知って、すぐにkindleでポチった。そして、面白すぎて一晩で読んでしまった。
南海キャンディーズ・山ちゃんの自叙伝で、今まで自分を如何に鼓舞し続けてきたかが書かれてある。劣等感に飲み込まれそうになりながらも、それをガソリンとして燃やし前に進む山ちゃんの姿は、とても人間臭くて、輝いて見えた。
M-1のときの話もあるんだけど、「この裏側にはこんな強い思い入れがあったんだ…」とyoutubeでそのシーンを見返しながら、ちょっと泣いてしまった。出会えてよかったなと思う本。
3、『社会人大学人見知り学部卒業見込み』若林正恭著
- 作者: 若林正恭
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/メディアファクトリー
- 発売日: 2015/12/25
- メディア: 文庫
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前述の山ちゃんの本のあとがきをオードリーの若林さんが書いていて、その文章がすごく良かったので、こちらも手に取ってみた。山ちゃんの劣等感や奢りにもすごく共感したんだけど、若林さんの「社会と自分」についての悩みは、私が抱えているモヤモヤにとても似通っていて、もうドストライクなエッセイ集だった。
売れる気なんてさらさらなく惰性でお笑いを続けていたら、気づけば立派な大人の齢になっていた。M-1をきっかけに爆発的に売れっ子になるも、世間が求めているものと自分の価値観にズレを感じ悩める社会人初期。
ロケで高い壺を目の前に「すごいですね!」とコメントするも、自分の中ではちっとも「すごい」なんて思ってない自分がいる。写真撮影で「笑ってください」と要望されるも、「楽しくないのになんで笑わなきゃいけないんだ」と思い悩み、それを周りに言ったら「尖ってるね!」と揶揄される。
お酌文化が「ご飯を奢っているのでせめてものサービスを…」というものなら、割り勘のときはお酌しなくて良いんじゃないか?と考えたら、周りには「屁理屈だ、大人になれ」と完結させられモヤモヤする。
社会人歴を積むに連れ、少しずつ社会のルールに浸っていくも、今度はそんなオートマティックな流れに「今、自分は本当に楽しいのか?」と疑問を抱く。悩みの深みに嵌らないためにゲームに没頭するも、今度はちょっとくらい悩んだ方が良いんじゃないかと揺れ動く。先輩方のアドバイスを素直に受け入れて、悩みのない穏やかな日常を手にするも、そんな毎日は空虚でちっとも面白くない。
*
人生って、0か100じゃないんだよね。行ったり来たり、時には0も100も両立させて進んでいく。「絶対こうすれば良い」なんて公式はなくて、自分なんてものは変えれなくて。それが人生で、それがありのままだなと感じた。
若林さんが何を感じて生きてるのか、他の著書を手に取るのが楽しみになった。若林さんがキューバに行ったときの旅行記があるらしいので、次はそれも読みたい。
4、『ソフィーの世界』ヨースタイン・ゴルデル著
新装版 ソフィーの世界 (上) 哲学者からの不思議な手紙 ( )
- 作者: ヨースタイン・ゴルデル,須田朗,池田香代子
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2011/05/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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最近、哲学系の本を読みあさってるんだけど、どの本にも既知としてフロイトとかニーチェとか哲学者の話が出てくるから、哲学の流れを一通り理解したいなと思って手に取った。
14歳のソフィーに向かって、謎の哲学者が哲学について時代順に講義していくというストーリーになっていて、とても丁寧でわかりやすかった。まだ読んでいない人にとてもおすすめ。
5、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎著
- 作者: 平野啓一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/14
- メディア: 新書
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「本当の自分」はたった1つの人格ではなく、対人関係ごとに見せる複数の顔で成り立っている、という話を「分人」という定義を使って説いている。
「キャラとかを人によって使い分ける」みたいな分かりそうな話かと思いきや、個人主義の問題点や人を愛するということなど、内容はなかなか深かった。
特に発想が面白いと思ったのは、私という個人はいくつもの「分人」によって成り立っているのだから、つまるところ、私の存在は他者との相互作用の中にしかいないという話。
私は強い個人を目指した結果「今の私があるのは私のおかげ」「すべて自分の選択なんだからすべて自己責任でしょ」と冷たい性格が育ってしまったのだけど、その概念を介せば人との関係性を大切にできて、ちょっと優しい自分になれそうだなと思った。
*
でもさ、私の存在は他者との相互作用の中にしかいないと言うなら、私と向き合っているこの「私」ってなんなんだろうね?もちろん「私」という存在が周りから影響を受けていることには同意できるんだけど、自分が培ったオリジナルな「自分」というものも私はある気がする…というのがこの本から続く今の課題。ヒントになりそうな本があったらぜひ教えてください。
6、『孤独の価値』森博嗣著
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2014/11/27
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フロムの『愛するということ』では、人間は「孤独」を克服したくて自然に祈ったり、宗教でつながったり、集団を形成しようとしたりする、とあった。確かに独りで生きていくのは強いし、私も「孤独」というものを避けようとして、そんなに好きでもない友達と群れてみたり、家族に執着したことはあったな〜と思う。
で、フロムは「孤独を克服するための解決策は愛だ!」という持論で、「愛するということ」を説いてるんだけど、私的には「愛」の前に「孤独を克服する」という話に引っ掛かりを覚えた。孤独って克服しなきゃいけないんだっけ?
確かに独りで生きていくことは怖い。けど、だからと言って「孤独」が悪いものではないと思う。むしろ私はある一定の「孤独」を欲している。そりゃもちろん誰かと一緒にいるのは楽しいけれど、同じかそれ以上に、自分独りで本を読んだり考えごとしたりする時間が楽しいと私は感じる。
『孤独の価値』では、「孤独はそれほど悪いものではない、むしろ価値あるものだ」ということを説いていて、それではなぜこんなにも「孤独」というものが毛嫌いされているのかというメカニズムと、孤独の楽しさについて考察が広げられている。メディアが演出する安っぽい「感動」への反動として「孤独=ダメ」という価値観が植えつけられている、という話なんかが興味深かった。
*
個人的に痛快だったのが、文の端々に見える「考えない人」への非難。私は外から見ると思いつめて見えるのか、「考えすぎだ」とか「もっと気楽に生きなよ」みたいなアドバイスをよくいただくのだけれど、「考えている人」に対して「考えるな」というのは一種の冒涜だなあと我がごとながら感じていた。
考えることは、基本的に自身を救うものである。考えすぎて落ち込んでしまう人に、「あまり考えすぎるのは良くない」なんてアドバイスをすることがあるけれど、僕はそうは思わない。「考えすぎている」悪い状況とは、ただ一つのことしか考えていない、そればかりを考えすぎているときだけだ。もっといろいろなことに考えを巡らすことが大切であり、どんな場合でも、よく考えることは良い結果をもたらすだろう。
(『孤独の価値』位置: 469)
こういった場合に、「嫌なものは嫌なんだからしかたがない」と言う人が多い。これは、典型的な「思考停止」であって、その症状の方が、寂しさや孤独よりもずっと危険な状態だと思われる。思考しなかったら、つまりは人間ではない。人間というのは、考えるから人間なのだ。したがって、考えることを放棄してしまったら、それこそ救いようがない、という状態になってしまう。
(『孤独の価値』位置: 508)
「思考しなかったら人間ではない…」とさすがにそこまではエクストリームなこと言わないけれど、「考えること」こそが人間を人間たらしめる側面だと私も思う。
7、『サラバ!』西加奈子著
- 作者: 西加奈子
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2017/10/06
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*ネタバレを含みます。
「僕はこの世界に、左足から登場した。」という一文から始まるこの小説は、主人公『圷歩(あくつ・あゆむ)』が37歳までの半生を自叙伝として振り返るというかたちで綴られている。
父がイランに出向していた関係から、「僕」はイランで生まれ幼少期を過ごす。イラン革命の為に帰国を余儀なくされ、日本に滞在し、幼稚園・小学校へ通うも、また父の転勤で今度はエジプトへ。そこでヤコブというエジプシャンの少年と親密になるものの、両親の離婚を理由に帰国することに…というところで上巻がおわる。
上中下の3巻構成で、1冊1冊の分量も多く、しかも内容がよくも知らない誰かの出自を平凡なトーンで聞かされるというものなので、レビューなんかを見ると途中でギブアップしてしまった人も多いようだけど、私はまず上巻でググッと心を掴まれた。幼少期の「僕」の目線でエジプトでの生活が語られるのだけど(イランでは赤ちゃんだったので外界の描写は少ない)、その描写が驚くほどに鮮明なのだ。
窓から流れ込むアザーンの声に驚いたことや、エジプト人の酸っぱい匂い、物乞いをする人々への感情や、人懐っこ過ぎるエジプトの子供達(通称エジっ子)との攻防戦。私はエジプトを訪れたことがないから知らないけれど、「僕」が感じる何もかも全てがで等身大すぎて、こんな「小説読んだことない!」と興奮した。
聞けば、著者の西加奈子さんは「僕」と同じようにイランのテヘランで生まれ落ち、エジプト・カイロにも住んでいたそうだ。小説というかたちで、主人公の性別も違うけれど、きっと大半は自分の経験なのだろうなと納得した。
*
中巻・下巻では、気性の激しい「姉」と自由奔放な「母」との間で揉まれつづけ、「空気の読める良い子」として順調に人生を進めていくのだが、あることをきっかけに人生が転落し、引きこもりになってしまう。上手くいかない理由を外の世界に押し付けつつも、劣等感に飲み込まれていたところ、かつて問題児だった姉が現れ「自分の信じるものを探せ」と助言を受ける。
時間をかけて自分と向き合った結果「自分の信じるものはサラバだ」と気がつき(サラバの意味は小説を最後まで読まないとわからない)、物語(この小説)を書き始める…というところで物語はおわる。結構ネタバレしてしまったのだけど、この小説の本髄はこんなんじゃ損なわれないほど、深く深く用意されているので大丈夫だと思う。
本当にいろんな出来事が起こるので(何しろ3巻に渡って内容がみっしり詰まった小説だから)、どこが面白かったとかサラっと言えるお話じゃないんだけど、読み終わった後は信じることとか、劣等感とか、「姉・貴子」のこととか思いを巡らせる事柄がたくさんあった。ぜひ読んだ人とどこが印象に残ったかシェアしたい!
*1:ちなみに1冊目は苫野一徳著『はじめての哲学的思考』、2冊目は泉谷閑示著『仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える 』、3冊目は小野美由紀著『傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』。
自分がないという悩み
わたしはいわゆる「さとり世代」に当たるのだけれど、その悟りというのはわたし自身を言い得ているようで少しずれていると感じる。
さとり世代とは一般的に「欲がない」と言われている世代を指すそうだ。けど欲がないわけじゃない。やりたいことはあるんだけれど、それが何か分からない。
いま若者を中心に「何がしたいか分からない」「やりたいことがない」という人が増えているらしい。書籍『仕事なんて生きがいにするな』によると、こういう人たちはそもそも「何が好きで嫌いなのか」ということをあまり考えたことがなく、その背景には小さい頃から親にいろんなものを決められて”受動的”に育ってきたことがあるそうだ。
わたしも、強制はされずとも、親やまわりの期待に応えようと一生懸命みんなが与える「良い子」を演じるばかりに、「自分」の発達を蔑ろにして生きてきてしまったな、と振り返って気づく。
しかも、蔑ろにするだけにとどまらず、良い子を演じることが得意になりすぎて、もはや自分と向き合うことに難しさを感じるレベルに悪化していた。自分とかよく分からないものと格闘するよりも、誰かの期待に答えている方が100倍楽だ。「自分」から逃げるように、日常の中に溢れる自分への小さな期待を一生懸命嗅ぎ分けて、「誰かに見せるための自分」をどんどん膨らませていた。
そんなんだから、「好きなもの」どころか「好きなものの探し方」すら分からない。17歳、幸運なことに大学受験に失敗して「自分」と向き合うチャンスを手に入れたんだけど、当時のわたしは「からっぽの自分」を目の前にして困り果ててしまった。
せっかく自由を手に入れて何でもできる自分になったのに、何がしたいか分からない。次へ進むための「自分」がない。
道も標識も何もない、途方もなく真っ白な空間でひとりぼっち、完全に迷子になった。
「本当のやりたいことはどこかに転がっているはず」と、よくある「本当の自分探し」の流れで「海外」という刺激の海に飛び込んだ。けど、結局「自分」と向き合う気がないと「からっぽの自分」は満たされないんだよね。
***
「自分と向き合う」というのは「頭」で考えることを捨てて「心」 で感じ取ることに重きをおくとわかりやすい。
頭でっかちな私たちは「これをしたら何が得られるのだろうか?」「結果を出すためにもっと簡単な方法はないのだろうか?」となんでも「頭」で勘定をしてしまう。
ビジネスの世界ならばそれもいいのかもしれないけれど「好きなことを見つけたい」っという内面の悩みの前では、「頭」はときに邪魔者になる。
「好き」とか「楽しい」っていう感情は、頭の中で「これこれこうだから、好き、楽しい」と論理的に”整合”されるのではなく、自分の奥底から”湧き出してくる”もの。それを感じ取ることが「心」の働きであり、湧き出す感情なしに「頭」だけで判断した「やりたいこと」の多くは続かず、途中で「これ違ったかも?」って悩みはじめる。とりあえず私はそうだった。
そもそも最初は「心」で何かを感じ取るってことの概念が分からなかったし、仕組みを理解した後も、「心」で感じ取ることがすごく苦手だから、得意な「頭」でなんとかしようと、自己啓発書を読んだり、スキルをつけて現実逃避したりして、なんとか自分の外に答えを探そうとしていた。もちろん、そんなのはその場しのぎで「からっぽ」を埋める”代用品”にしかならなかったのだけど。
自分のやりたいことを見つけるには自分と向き合うしかない。自分がどういうときに楽しいのか、どういうときに楽しくないのか、苦手でも手間がかかっても「心」で感じ取っていくしか解決方法が見つからない。なんども失敗を繰り返して、どうやら「頭」でやるには限界があるらしいと確信していった。
結局、自分とちゃんと向き合おうと腰を据えたのは1年前。海外に出て5年目のことだった。最初はやっぱり「頭」で勘定することをやめれなくて、「気持ちを大事にしよう」と思いつつ、その行動にすぐに結果が得られることを期待したりして、たくさんモヤモヤした。
けれど、1年間もがきつづけたら、やっと「これがやりたい」と心から思えるものの端っこを捕まえれた。まだ具体的に現わせることじゃないけれど、体験を通して「楽しいこと」と「楽しくないこと」をリストアップしていったら「やりたいこと」の輪郭がどんどん濃くなっていったかんじ。
同時に「本当の自分探し」もおわりを迎え、「そうだよな、自分ってこうだよな」と納得できるようになってきた。これも答えは外にあるんじゃなくて自分の中にあった。
迷子になって、早6年。かなり遠回りになってしまったけれど、やっと光が見えはじめた。
マオリの土地問題とエセジャーナリスト
1. 旅を仕事に
「好きなことをして生きていきたい」
ここ最近、胸を張ってそう言えるようになった。
好きなことってなんだろうと考えたら「旅」というキーワードに行き当たった。せっかく生きてるんだから、ここにある世界を全部見てみたい。そう思うのは私だけではないだろう。
「じゃあ、旅を仕事にしよう」
けれど「旅を仕事に」なんて正直ありふれている。旅ブロガー、インスタグラマー、ユーチューバー?どれも聞き飽きた。
「私は生きている間に何をしたいのか?」「自分が楽しかったらそれでいいのか?」そう考えたとき、「死んだ後に残るものが欲しい」そう思い至った。
だったら、残すべき何かを探してそれをドキュメントすればいいんじゃない?この時代、この環境で生きている私にしか見えないものはたくさんある。私たちが過去を学べるのはそれを後世に伝えれるカタチとして残してくれた人がいるからだ。今度は私がそれをするのはどうだろう?
残す価値のある内容を取りに行く。私の「旅を仕事に」はもしかしたら”ジャーナリスト”というカテゴリーが一番近いんじゃないだろうか?
そんなことを考えながら、ニュージーランドへ飛んだ。
2. ニュージーランドへ
ニュージーランド北島に位置するタウポは澄み切った青い湖から望む美しいトンガリロ山脈が有名な観光・リゾート地だ。
私はここから車で40分ほど離れたトゥランギという町のファームでお世話になることにした。
ウーフという形でマオリの血を引くホストが運営するファームをお手伝いしながら、地元のマオリコミュニティーに関わることができるという。
実は以前ニュージーランドに住んでいたことがあって、ニュージーランドは全体的にクリーンで感じが良いという印象を持っていた。人は優しいし、移民には寛容、政治はオープン、自然観光に力を入れているから環境保護もかなり手厚い。
いま住んでいるオーストラリアも似たような国の成り立ちではあるのだが、ニュージーランドほどクリーンなイメージを持った事はない。特にオーストラリアとアボリジニの関係は決して良いものとは言えない。
ニュージーランドでは原住民のマオリに対するリスペクトが強く、ニュージーランドの国民性にもマオリ文化がかなり影響していると思っていた。
以前、アボリジニと入植者について熱心に調べていた時期があった事もあり、今回の旅では「ニュージーランドとマオリの関係性」にスポットライトを当ててそれを記事にしようと思っていた。
ニュージーランドはマオリであろうが白人であろうが、どんなバックグラウンドを持っていてもニュージーランドに住んでいるならみんなキウイ(ニュージーランド人)だという意識が強く、人種問題についてはかなりの先進国だ。
しかしニュージーランドとて完璧ではないはず。
今回はマオリの人にお世話になるということなので、「マオリ側から見たニュージーランド」というものを探ってみることにした。
*
ホストのリサはマオリの血を引く白人系の女性で、ニコニコとした良いおばちゃんというのが第一印象。見た目はマオリっぽくないのだけれど、口元のタトゥーを筆頭にマオリ文化をすごく大事にしているように感じた。
リサ自身は子供の頃は自分がマオリだという意識はなく、普通のニュージーランド人として暮らしてきたという。大人になるにつれマオリとしてのアイデンティティーを感じるようになり、15年ほど前に自分の部族の土地に移住し、先祖代々の土地をファームとして運営し始めたそうだ。
ファームを営む傍ら、地元のマオリ学校にガーデニングや給食のお手伝いをしに行っている。
私の到着した3日後がマオリのお正月であるマタリキに当たるらしく、リサはその準備に大忙しだった。
3. リサのはなし
翌日、地元のマオリ学校でマタリキに向けたイベントがあるということでリサに同行することにした。マタリキ前に全校生徒が一人一人スピーチをするという。
ファームから学校まで車で40分、リサとゆっくり話しをすることができた。
タウポ湖をぐるっと取り囲むカタチで引かれた道路を走る。車からの眺めは絶景だった。
「キレイねー!」と感動する私。
すると突然、リサはワントーン低い声で話し始めた。
「たくみ、あれを見なさい。あれは全部パケハの持ち物よ。」
湖畔の別荘と思わしき住宅を指して言う。
「これもこれも全部パケハのもの。見て、どの家にも車がないでしょう?これは別荘で1年に1回くらいしか使わないのよ。」とリサは続ける。
パケハ(ペケハとも表記する)とはマオリ語で白人を指し、この場の意味では特に白人の入植者を指している。
「この土地は全て私たち部族のものだったの。それが今や全てパケハのものになってしまった。」
「ここに入植してくるパケハはマオリのことなんて還り見ようとしない。ただ良い眺めで良い家があればお金を払って終わりよ。」
「マオリは土地を買い返すお金がないから元の土地(眺めのいい湖畔)には住めない。この地帯は私たち部族のものとされていてもね。」
私が旅で知りたかったことの核心に触れるリサ。
「ここはマオリのためのニュージーランドじゃない。私たちはまだ奪われ続けているのよ。」
この会話をきっかけに、私はマオリとニュージーランドの関係が決して良いものではないことを知り始めた。
4. マオリから見たニュージーランド
例えば、トンガリロ地域では植林が盛んなのだけれど、リサ曰く、その植林に使われている土地はマオリのものなのにマオリは土地の租借代をほとんど受け取ることができていないという。一応土地についての使用契約はあるらしいのだが、正常に働いていないらしい。
私たちが走っている眺めの良い道を作るために元々住んでいたマオリは土地を取り上げられ、湖から道路を挟んで反対側の土地へ強制移住させられたそう。その際にお墓なども強制移動させられ、西欧風の墓地を充てがわれたという。
また、マオリの平均収入はニュージーランドの中でも低いらしい。この国の先住民としてマオリに賠償金の支払いや土地の返還が行われているならこんなことにはならないとリサは話す。
学校ではマタリキのスピーチがあり私も見学させてもらった。
この学校はこの地域のマオリのための学校で赤ちゃんから高校生ぐらいまでの子供達が同じ校舎で学んでいる。授業は全てマオリ語で行われ、内容もマオリ文化に関することが多く取り上げられる。
スピーチもマオリ語で行われるので私には全く意味がわからないのだけれど、パケハという言葉が多用されていることに気がついた。
こそっとリサに何の話をしているのか聞いてみたところ、「マオリとしての自分を誇らしく思う」、「これからのマオリ社会を引っ張っていかなければ」といった内容を話しているそう。
その後もリサやマオリの人との会話から「ペケハ」「Maori's right(マオリの権利)」「unfair(不平等)」「decolonization(植民地支配からの解放)」といった言葉を頻繁に耳にした。
5. ファームでの生活
マタリキがおわりひとつ区切りがついて落ち着いたのか、リサはほとんどファームに立ち寄らなくなった。
初日からそうだったのだが、リサは今ファームに住んでおらず、他にウーファーもいないのでファームには私1人で生活している状態だった。これからしばらくは父親の住む実家でゆっくり過ごすらしい。
ファームではパーマカルチャーという、(平たくいうと人間だけではなく地球全体でハッピーになれる生き方を選ぼうというもの)を採用していて、ファーム内の建物はリサイクルの材料を使っていたり、何も無駄にしないようにと、人糞は肥料に、食べ残しは豚の餌に、燃やせるものは暖炉にとエコな生活を中心に営まれていた。もともと地球に優しいライフスタイルというのに興味があったから、今回の滞在はパーマカルチャーも一緒に学べて一石二鳥だった。
事前に勉強したことから、パーマカルチャーについては多少の不便が生まれるのは仕方ないと理解はしていたのだけれど、現実は想像以上に酷かった。
例えば、ファームではパーマカルチャーといって人間にも地球にも優しいライフスタイルを採用していて、電気はすべてソーラーパネル。これはエコで良いんだけれど、ニュージーランドの雨が続く冬には十分な設備ではなく、電気は思うように使えず、夜はランプを灯す。
またお湯は太陽光で温めるんだけれど、これも温まらないから水シャワーしかでなくて、寒い冬空の下もはや修行状態。
もしリサも同じ環境で生活しているなら「そうか、エコってこういうことなのか」と納得できる。しかしリサは「これがエコな生活よ」と言いながら、「私は温かいシャワーやスピーディーなWifiといった文明のある生活が必要なの」と実家に戻っていった。
食事は自分で食料庫から勝手に材料を取って料理して良いスタイルだったのだけれど、あるのは豆の缶詰とパスタだけ。
リサがファームに滞在しないということで、私は飼っている豚と犬に餌をやってくれれば後は好きに過ごしていいという。
ウーフは働く対価として食事と寝床を提供するというものなので、餌やりへの対価とすれば妥当なのかもしれないけれど、いや豆とパスタって。。食材を買いに行くにしても足がないので正直かなり困った。
滞在はまだ1週間残っている。
私は滞在費を浮かしたくてここに滞在しているわけではないから「仕事が少なくってラッキー」と単純に喜ぶわけにはいかなかった。むしろ、この何もないファームで放置されてしまったら、本当に何をしに来たのかわからない。
豚の餌を運びにやってくるリサにマオリでもパーマカルチャーでもいいから何か関わりたいというと、「じゃあ何か考えてくるわ」と言ってくれるのだけれど、結局豚と犬の餌やりしか仕事はもらえなかった。
途中からこのファームに滞在しながらホームスクーリングをしているというニュージーランド人家族が旅行から帰ってきて(私が来たタイミングで旅行に出発していたらしい)、暇な私は子供達の先生兼あそび相手というポジションになった。この家族を通していろいろな学びはあったものの、マオリやパーマカルチャーといったものには深く関わることはこれ以降なかった。
リサはマタリキというビックイベントで自分の次のステップが見えたのか、ファームを訪れる際に「今後はファーム内をマオリ語オンリーにしたい」「もっと畑を耕してマオリのコミュニティーガーデンを作るのよ」という話をしてくれるのだけれど、そのために何か始めましょうという話になるわけではなく、ただただ思いついたアイディアを一方的に聞かされるだけ。そして話が土地やマオリのことに流れると「パケハめ」とまた同じ話を愚痴るように話すのだった。
「今日は何食べた?」「いつここを出るんだっけ?」と一応気にかけてくれるのだけれど、会話中も自分の頭の中でいろんなアイディアが出てきて忙しいのか、聞いてきたのにもかかわらず会話の最後は「whatever(まあ、なんでもいいわ)」と投げやりに終わらせ、豚の餌やりよろしくねと言って帰ってしまう。
蔑ろにされていることを不満に思いながらも、度胸のない私は何も言えず、結局10日間の滞在はこんな感じで終わってしまった。
6. 体験を形にする
帰国後、私は悩みに悩みまくった。
この体験をどう切り取ればいいのだろう?
私は何を伝えたいんだろう?
構成を練っては書き出し、練っては書き出し、を1ヶ月続けてきたけれども納得のいくものにはたどり着けなかった。
あまりにも書けないものだから、これは私の中に何か根本的な揺れがあるのではないか。そう考えた中に1つ見えたものがあった。
今回の滞在は私が思い描くジャーナリズム的な何かをカタチにしたくて行ったものだった。
もちろんニュージーランドやマオリについて知りたいという純粋な気持ちもあったけれども、旅の主な目的は「ジャーナリストとして私はこんな仕事ができるんですよ」と人に見せられるものを作ることだったのは間違いない。
幸いにも記事作りのネタを掴むことはできた。リサのように自分の意見をオープンに語ってくれる人と出会えたことはものすごくラッキーだ。これでやりたかったジャーナリズムができるじゃないか!
ここまで素材が揃った。けれども迷う。
それはなぜか?
『私はマオリの友達になれなかった』
これが大きく関係していると思う。
7. エセジャーナリスト
『何かを伝える』ということは「誰かのために何かしたい」という気持ちが発端になるものだと思う。
例えば、
シリアの悲惨な状態を変えたいから、現地状況を写真や文章、動画を介して世界に伝える。
LGBTについて理解を広めてみんなが生きやすい世界を作りたいから、今起こっていることや1個人の声でも拾って世界に届ける。
これが正当なジャーナリズムであると私は思う。
私は旅を通して出会ったものを他の人にシェアしたい。
「こんなすごいものが世界にはあるんだよ」「私たちの知らない世界ではこんなことが起こっているんだよ」と伝えたいと思っていた。
『知ることから世界は変わる』
人は知らないとそれを選べない。知らないと新しい世界への扉は開かない。そう私は信じているから、伝える側になろうと思った。
けれども、今回のように伝えるために出会いに行くというのは順番が逆だった。
今ならわかる。私はエセジャーナリストだったんだ。
そこにいる人たちのために何かしたいだとか、それについて自分が何かを世界に伝えたいだとか、そういった純粋な動機をすっ飛ばして、ネタがあるから取りに行く、まるで作品を作るかのように問題に関わる。そんな自己中心的な考えを持って相手の問題を消費しようとしていたのだ。
もちろん、始め方を間違えてしまっても、関わり合いの中で軌道修正することはできた。リサやマオリの人と仲良くなって「この人たちのために何かしたい」と思えれば万々歳だ。けれども、私は蔑ろにされることに腹を立てながらも、自分がドキュメントすることばかりに気を取られて、相手に歩み寄ろうとする努力が足りなかった。
今回はリサが忙しかったとか、そもそもリサは私に興味がなかったとか、友達になるハードルは高かったかもしれない。けれども、もっとリサと関係を深めるためにできることはあったと思う。
遠慮せずにもっと突っ込んだ質問をしたり、家について我慢するんじゃなくてこうしてほしいと頼んだり、いろいろ働きかけることはできたはずだ。リサ以外にも他のマオリの人に遠慮せずにもっと深く話し込めばよかったなと今なら思う。
チャンスははいくらでもあったけれど、私はそれを逃してしまったんだ。
こうして、せっかく知ることができたのに、根本的に「なんのために書くんだ?」というところで揺らいだ。
リサたちの話に納得していない自分がどこかにいて「マオリはかわいそうだ」と言い切ることはできないし、友達でもない人の証言を裏付けるために膨大な英語やマオリ語の資料を読み漁るほどの熱量もなくなった。むしろマオリはかわいそうかもしれないが、パケハ、パケハと排他的に移住者を扱うことにも和解ができない一因があるんじゃないかとさえ思ってしまう。
7. 人に見せるための自分をやめる
「旅」というのは「自分が世界を見たいから」という個人完結的な理由が核にあるから、正直、旅すること自体をお金にすることは難しい。
だから、旅をしながらお金を稼ぐ人は自分の持つスキルと旅に掛け合わせたり、旅をしながらでもできる別の職業についていたり、ブログで稼いだり、有名になって旅先での仕事をゲットしたりと、みんな色々工夫している。
私にはお金になるような特別なスキルもないから「なんとか有名にならなきゃ!」とブログやツイッターを始めた。けれど、同じようなことを考えている人はごまんといて、その中で差別化をはかって頭ひとつ飛び出なきゃ有名にはなれない。
じゃあ、旅をしない人にもウケるように各国の問題をつついてみるのはどうか。そう思いついた私は「みんなに届けるために、現地に赴いてレポートするんだ!」と言う大義名分を担ぎ始めた(残すものを書きたいという気持ちもあったけれど)。
そして、その気持ちがエスカレートしていき、いつしか自分のための旅が誰かのための旅になった。旅していない間も「私は普通の旅人じゃなくてもっと知的で価値があるように見せなきゃ」と誰かに見せるための自分を意識するようになってしまった。
まるでインスタ映えを狙う女子のように、自分の見せたい世界観に合うようにだけSNS上で自分を切り取る。これがやりたいわけじゃないのに、みんなにウケるから、と旅をこじらせていった。
自分をブランディングするというのは有名になるステップとしては間違っていないのかもしれないけれど、頑張って自分を見せているからどんどん疲れてくる。「これを言ったらどんなふうに思われるんだろう?」と人の目を気にして、投稿するのが億劫になる。つまらない。更新頻度がどんどん落ちていく。負のスパイラルに陥っていった。
今回のニュージーランドでの経験から自分が如何にねじれていたのかがよくわかった。
「もうジャーナリストを気取ることも、見せるための自分を切り取ることもやめよう」
仕事を作らなきゃ、旅をマネタイズしなきゃっていう思いはあるんだけれど、やっぱり「自分がたのしむこと」が一番大切だ。見たいものを見て、伝えたいと思ったことを伝えよう。旅は自分のためにするもの。ぐるぐる回ってやっと素直に言えるようになった。
*
次の旅はチベットにいく。
行くことを決めたときはまだ「なんのために旅をするんだ」という答えは出ていなくて、『中国のチベット民族に対する弾圧』『チベット民族の今』をドキュメントしに行くなんて、これまた偉そうなことを言っていた。
けれど今はこう考える。
「私が行きたいから、チベットに行くんだ」
今まで知らなかった新しい世界を見てみたい。その地で生きる人々に会いたい。友達になりたい。だから行くんだ。チベット問題なんてその後でいい。まずは出会いたいんだ。
お金になるとかならないとか、そんなのわからないけれど、自分を偽らない。
これが「好きなことをして生きていく」のファーストステップなんじゃないだろうか?
旅の教養としての読書|「大国の掟」佐藤優
1
先日、「旅に出たい」と心が叫んだ。
2018年上半期は私にとって旅への挑戦シーズンであった。真夏の中央オーストラリアを車で縦断し、今度は真冬のロシアをシベリア鉄道で横断、からの東欧を何カ国か跨いできた。
オーストラリアに帰国して早3ヶ月。安定した毎日とは裏腹に、どこか知らない世界を覗いてみたいという思いがフツフツと沸いてきた。
私が「旅に出たい」と思うのは、広い世界を見たいという人間的冒険心と、新しいものに出会うことで自分の価値観をグラグラやってしまいたいという欲求があるからである。
実は今年以前の旅には”なんとなく”なものが多かった。日本に住んでいたとき韓国や台湾、フィリピンを訪れたが、それは「ここではないどこかへ行きたい」という気持ちからのもので、そんなちゃらんぽらんな動機だから実際に何をしたのかほとんど覚えていない。
冒険心だの旅への快感などは側近の旅で得た実感であり、ちゃんと目的を持って行った中央オーストラリアやロシアはしっかり覚えている部分が多く、わざわざ足を運んでよかったなと心から感じる。
逆にロシアの後に訪れた東欧諸国は、せっかくヨーロッパまで出てきたのだから見ていかないと”もったいない”という大阪のおばちゃん精神で行ってしまったため、パスポートを盗まれるという事件があったウクライナぐらいしか印象に残っていない。
「なんとなく」は「なんとなく」で予期せぬ出来事に出会えるという良い部分もあるが、旅を終え強く感じたのは、もっと知識を入れてから旅したいという気持ちだった。
恥ずかしながら、私はあまり世界のことを知っている方ではなく、地図上のどこにあるかさえ分からない国も多々あるし、大国でも政治的な関係性や宗教もしっかりとは理解していなかった。
適当にこの景色見て見たいと観光地を選ぶことはできるが、私は現地の人と交流したり文化を体験したりするのが好きなので、その国自体のことを知らないと行きたいかどうかすらわからない。1つの国を絞ってウィキペディアなどで情報を入れることはできるが、大陸国を訪れてからは隣国との繋がりも大事だなと感じるようになった。
ということで、次回旅に出るなら世界のことをもっと知ってからと、今は勉強中という処遇である。
(写真はシベリア鉄道乗車時に撮影)
2
今回手に取ったのは佐藤優著の「大国の掟」。
佐藤さんは在ロシア(ソ連)日本大使館に勤務していた元外交官で、私の敬愛する作家でロシア語通訳者でもある米原万里さん経由で佐藤さんのことを知った。
専門的な話だったらどうしよう、と予備知識の乏しい私は恐る恐る読み進めていったのだけれども意外と理解できたので、私のような世界情勢初心者の方にオススメできる。
本書の内容に触れると、
国際情勢について解説する本はたくさんあるでしょう。しかし、情勢は巡るましく動いていきます。いくら最新の情報とはいえ、たちまち古くなってしまう。重要なのは、表面的な情勢がどう動いたとしても変動しない「本質」を把握すること。言い換えれば、アメリカをはじめとする「大国を動かす掟」について理解を深めることなのです。(「大国の掟」p.9)
世界情勢を正しく理解するには、表層だけを追いかけるのではなく、変わらない部分、つまり、積み重ねてきた”歴史”と”地理”という物理的な制約を理解することが必要である、と佐藤さんは語る。
世界を理解するためには歴史を勉強するのが良い、と大人の教養として歴史本などはよく見かけけれども、それを”変わらないもの”として国の傾向を分析をし、さらにその背景として地理的な見解を含めたものはあまり手に取ったことがなかった。
変わらないものとして歴史、地理、そこに宗教をプラスして本書は展開していく。全ては密接に関係しているので、その繋がりにハイライトをおいた解説はとても分かりやすく読み応えがあった。島国で(主に)単一民族国家である日本で生まれ育った私からすると、特に中東あたりの大陸国家で民族や宗教の違いが複雑に交わっているエリアは苦手意識が強かったが、紐解くように一つずつ丁寧に話を進めてくれたおかげで、なんとなく全体像が掴めたように感じる。
こうした地理的な環境が国家の歴史や政治的側面に与える影響を研究する学問を地政学と呼ぶのだけれど、地政学は 戦争を正当化するために利用されたという事実から(今もロシアはバリバリ使ってる)、戦後の日本では研究するのも教えるのも避けられていたそう。
けれども、この複雑な情勢下、地理と歴史の関係性を無視して現在起こっている出来事を理解することは困難だし、私のように自分で現地に足を運び、ここに山がある、ここには河がある、だからここの文化や人はこのようなのだと確かめたい旅人にとって地理という要素はかなり大事だなと読了後、改めて感じた。
3
本書では地政学やらシーパワー、ハートランドなど聞きなれない要素もあったがよく理解でき、最後まで読むことで、頭の中に世界地図が広がった。言うなれば、世界を見るための大きな枠を与えられたような感じだ。
もちろん、1冊の本で世界を理解することなんて到底不可能なので、今後はジグソーパズルのピースを埋めていくように、気になったことを一つ一つ調べ、貯めてきた知識を現地で答え合わせし、同時に自分の体験として深めながら、自分の世界を広めていく予定だ。
今回特に気になったのは新疆ウイグル自治区や中東の”国境”という問題。海で全方向を囲まれた日本にとって国境は海岸線を意味するので分かりやすいけれど、大陸かではそうはいかない。
本によるとイスラム教の世界観では国境というものが認められておらず、ムスリム圏であれば人は自由に移動できるそう。しかし、そこに欧州の事情で国境を引き、それによって人々の移動が制限されてしまった。国という単位は世界共通で当たり前なものだと思っていたけれど絶対的に良いシステムというわけではない。1つ1つの国として認識することで逆に頭の中の世界地図では靄がかかっていたように感じる。勉強を続けて近いうちにぜひ訪れてみたいと思う。
4
旅に出てみてよかったなと思うことの一つに、世界を自分ごととして考えられるようになったということがある。
私が訪れたのは200か国以上ある国々の中のせいぜい10数カ国だけれども(しかも旧ソビエト圏ばかり)、例えばEUとロシアの間に挟まれたウクライナの状況など訪れるまでは少しも考えたことがなかった。ロシアなんて寒くて広いぐらいしかイメージがなかったけれども、そこに知っている土地と人があるから、外交上のプーチンの動きなんかがよく目に入るようになった。
反対に海外を見ることによって、日本の動向もきになるようになり、今まではどこか他人事だった世界のことがどんどん近くに感じ、いい意味で世界が小さくなったように思う。
学生時代、世界のことについてたくさん学んできたけれど、学校で教わることはどうしても受け身で、それが自分の何かと繋がっているようには考えられなかった。高校時代は世界史と日本史をとっていたけれど、この時の勉強はキーワードや年号を頭に叩き込むだけで実際は全く実用的じゃなかった。
大人になってから「学生時代にもっと勉強しとけばよかったな」と思う人が多いと聞いたが、個人的には、意味のない詰め込み学習なんてせず、もっと早い段階で世界に飛び出していたかったなと思う。
まあ、そんな過ぎた過去を思い起こしても仕方がない。「今の自分が一番若い」という言葉を噛み締めて、貪欲に自分の世界を広げてゆこうじゃないか。
ウクライナでパスポート盗まれたけどウクライナが大好きな理由。
今年の3月こんなツイートをした。
ウクライナから速報です。
— takumiko (@takumiko_com) 2018年3月4日
昨夜、路上にてパスポートをスられました。犯人には気付いたのですが、取られたことを把握したときにはもう遥か彼方。捕まえれませんでした。
もう諦めるしかない、と再発行の準備を進めていた今朝、なんと「あなたのパスポートを拾いました」とFBで怪しい連絡が!つづく→
今回はこのことを振り返ろうと思う。
***
2月末、ウラジオストックをスタート地点に始まった、ユーラシア大陸横断の旅。
シベリア鉄道に揺られること約1万キロ*1。真冬のロシアをのらりくらり進み、
バイカル湖にて。
— takumiko (@takumiko_com) 2018年2月2日
寒いのを忘れてずっと見ていられる、美しい夕日でした。 pic.twitter.com/eKQILwgJ2m
バルト三国を南下し、
ラトビア🇱🇻リガの旧市街は光と影がくっきりついて、写真を撮るのが楽しい街歩きでした。ドイツの面影が強く残るそうで、エストニアのタリンとはまた違った印象。 pic.twitter.com/pZVBgSvbNu
— takumiko (@takumiko_com) 2018年2月27日
ベラルーシに少しだけ立ち寄り、
ベラルーシ・ミンスクのソ連感が半端ない。ロシアの日々を思い出してなんだか懐かしい感じ。 pic.twitter.com/4M4r3um9ly
— takumiko (@takumiko_com) 2018年3月2日
やっとこさ、ウクライナにたどり着いた。
ベラルーシの通過ビザの日程だがかなりギリギリだったのと、ケチって時間帯の悪いバスを買ったこともあって、リトアニア→夜行バス→ミンスク(12時間の滞在)→夜行バス→キエフ、と2日連続夜行バス。
しかもウクライナ入国時になぜか引っかかってしまい(ロシアで何してたかしつこく尋問された)、寝不足と疲労がマックス。
そんな中たどり着いたキエフ。
正直あまり期待していなかったんだけれど、予想外の好感度。意外に都会で街はキレイ。メトロも行き届いていて使いやすいし、物価はロシア並みに安い(宿がドミトリーで400円、ネット3GBで300円、カフェでコーヒー1杯100円)
そして何より、人が優しい。行き先が分からなくて困っていたら声をかけて助けてくれるし、ロシア語もウクライナ語も分からない私のために頑張って英語で話そうとしてくれる人が多い。(ロシアではロシア語分からないと言ってもロシア語で強行されことが多かった)あと、笑顔が多い。
到着後、ネットで予約したホステルへ移動。ニコニコしたおばちゃんが迎え入れてくれた。このおばちゃんも良い人で(ナターシャという)、英語は全く分からないがスマホを駆使し、慣れた手つきでロシア語と英語を翻訳する。
ベットメイキングに時間がかかるからとお茶を入れてくれ、この人は英語が分かるからしばらくお喋りしてみたら?と他の滞在者まで紹介してくれる。すぐに気に入った。
暫くネットを使っていなかったので、ノマドの間で有名なカフェに行ってみたところ、Wi-Fiも意外と速く快適(ロシアよりはマシ)。カフェの内装もこだわっていて可愛い。
物価も安いし、ネットも悪くない。人は優しいし、居心地のいい宿も見つけた。沈没するには完璧だ。
度重なる移動に疲れていた私は少しの間キエフで羽を休めることにした。
夜7時頃、ご飯でも食べて宿に帰るかとカフェを後にした。外はもう暗くなっていたが、1駅分ほどの距離だったので歩いて帰ることに。一番大きい通りを通って帰るので問題はないだろうと判断した。
キエフにはヨーロピアン調の大きい建物が多く、歩道は石畳み。夜はそれが街灯に照らされ、情緒がある。また、ブランドなどの広告も多く、特に韓国系企業のロゴが目につく。ロシアから思っていたけれど、この辺りは日系ではなく韓国系が今強いんだな、なんて考えながら歩いていた。
キエフ市街地では地下道が多くみられる。大きな道では横断歩道が設置されておらず、渡りたいときは地下へ一度降りないといけない。地下道内は大きなショッピングモールになっていて衣類や健康食品、電化製品などの店が軒を連ねている。
ショッピングモールはウサギの巣のように地上への出口が何個もあり、結構入り組んでいて、私みたいな旅行者にはどこの出口で出ればいいのか分からなかったりして中々難しい。ただ、雨や雪の影響がないのでささっと通過するのには便利だ。
カフェからの帰り、ウクライナは素敵だなとルンルンで歩いていたところ、急に雨がパラついた。手持ちの傘はなかったので、コートのフードを深くかぶり早足に歩く。背中のリュックは多少濡れても問題ない。
少し歩いたところに地下道の入り口が見えた。ラッキーと思い、迷わず進む。
地下へ降りる階段のそばの軒先に14歳ぐらいのウクライナ人少女が5人ほど雨宿りしていた。なぜか私をジロジロ見ている。あまりいい感じはしなかったけれど、アジア人旅行者が珍しいのか、ロシアやベラルーシでもこういった目線を何度か感じていたので、大して気にせず地下道への階段へ足を運ぶ。
階段を降り始めた直後、背中でチャックの開くような音がした。
ロシアでは、リュックの小さい外ポケットを開けられることがよくあった。旅行者を狙ったスリである。信号待ちしてるときなどに気軽に開けるらしい。この教訓から外ポケットには何も入れてはなかったのだが、定期的にポケットが開けられていないか確認する癖がついた。
このときも、キタ!と咄嗟にポケットを手で押さえ、同時に大きく振り返えった。
しかしながら、ポケットのチャックは空いておらず、振り返った先には、先ほどのウクライナ少女たちが私のいきなりのターンに驚いた顔をしていた。
この瞬間、私は心の中で「ああなんて私は心の荒んだ人間なんだ」と悔やんだ。
私はこの幼気な少女たちをスリと疑ってしまった。きっと先ほどの違和感はフードを被っていたせいで音がこんがらがって聞こえたのだ。なんてこった。こんな少女たちがスリだなんて、ウクライナ人に失礼な勘違いをしてしまった。。。
罪悪感に苛まれつつも何事もなかったので、「イズヴィニーチェ」とロシア語で謝罪し、くるりと前に向き直し階段を降り続ける。
しかし、背後の人間がやけに近い、気がする。。
ちょっと近すぎるんじゃない?と感じていた次の瞬間、背中に明らかな違和感が!これは絶対おかしい。
ちょうどその瞬間階段を降り切ったので手早くリュックをおろして確認する。外ポケットは開いていない。
が、大きいチャック(上に付いているメインのチャック)がベロンと開いているじゃないか!
なんだ私が閉め忘れたのか?(よく閉め忘れる)それにしても大きく開きすぎている。おかしい。盗られたとしたら何を盗られた?
冷や汗をかきながら1、2秒のあいだ頭を巡らせる。視界の端で少女たちが足早に過ぎ去ってゆく。
パソコンもある、携帯もある、お財布もある。何が無くなっているのか分からない。
けれど、盗ったとしたらさっきの少女たちだ。
パニックになりながらも、チャックを閉め、リュックを背負い直し、地下道を追いかける。
しかし、もう手遅れだった。少女たちの姿はどこにも見当たらない。そもそも、一人一人の顔なんて覚えてないし、誰が何を取ったのかも分からない。途中の出口で出られていたら絶対に見つけられないと理解しつつ、ショッピングモールの最後まで走りきる。
見つからない。
はーはーと息切れするアジア人を不審そうに横目に見ながらウクライナ人たちが通り過ぎてゆく。
走っている途中に何を取られたのかに気が付いた。
先ほど述べたようにロシアではスリが多かった。特にリュックは持ち主の死角に入るので狙われやすい。例えリュックの奥に入っているものでもサイドからナイフなどで切られて盗まれる、なんて怖い話も聞く。(これはロシアだけじゃないだろうけれども。)
どうしたってリュックの中は安全じゃないなと判断した私は、最低限の貴重品は斜めがけできる緑のポシェットに入れてコートの下に携帯していた。これなら脱がされない限り安全である。
通常はコートの下に忍ばせているのだが、ルンルンで警戒を怠っていた私は愚かにもリュックの中に入れてしまっていたようだ。そしてそれが無くなっている。
幸いにも携帯とお財布はコートの内ポケットに入れていたが、ポシェット内にはパスポート、お守りの現金1万円、宿のロッカーの鍵が入っていた。
「あいつらやっぱり泥棒だったのか。謝って損した。そして、パスポート!なんでこのタイミングでリュックに入れちゃうんだよ、自分。。」
諦めきれなくて、この怒りをどうにかしたくて、少女たちを探して夜のキエフを走り回る。悔しくて涙が出るけれどもそんなの気にする余裕なんてない。土地勘のない街でひとりぼっち。急にウクライナが冷たく感じる。
結局、1時間あまり探し回ったものの見つからず、夜も遅くなってきたので、仕方無しに宿に戻ることに。
扉を開けるとナターシャがお茶を飲みながら本を読んでいた。私のボロボロの顔に驚くナターシャ。状況を説明し宿のロッカーの鍵をなくしてしまったことを謝る。ロッカーの鍵はオーナーが持っているから心配しなくていいとナターシャは言い、違う部屋にいるオーナーを呼んできてくれた。
オーナーもまたおばちゃんで(ザーニャという)少し英語が分かる。もう一度何があったのか説明し、スペアキーが欲しいのと、パスポートがなんとかなるまで暫く滞在させて欲しい旨を伝える。(パスポートがないと他の宿泊所にチェックインできない)
ナターシャもザーニャも親身になって話を聞いてくれた。キエフでスリは日常茶飯事らしい。私が宿に泊まることは問題ないからまあお茶でも飲んで落ち着きなさい、と暖かいミルクティーを入れてくれた。
翌日、領事館に連絡すると早ければ1日でパスポートを発行してくれると言う。オーストラリアで失くしたときは最低1週間かかり、戸籍謄本の原本が必要で、、と面倒臭かったので今回も同じように面倒くさいと思っていたら、私が旅行者ということを加味して、警察の紛失届とお金さえあればすぐに手続きをしてくれるという。
領事館のフレキシブルな対応のおかげで少し気分が晴れた。
部屋でいそいそと紛失届について調べていると、ザーニャがやってきて、ご飯は食べたかと聞く。そういえばウクライナに着いてからまだちゃんとしたご飯を食べていない。気づけばもう昼前だ。
食べていないと答えると、ザーニャが美味しいレストランを紹介してくれた。プンザハタという安くて美味しい大衆食堂のようなところだ。ウクライナ料理といえばキエフ風カツレツを食べようと思っていたのだ。元祖ボルシチも食べたい。
急にお腹が空いてきたので、散歩がてら出かけることにした。宿を出る直前、ザーニャはビールを飲むのを忘れないように、と付け加えた。お昼からお酒でも飲んで元気出しなさいということらしい。パカパカ〜と告げ、宿を出る。
ザーニャおすすめのプンザハタは誠にリーズナブルで美味しかった。お腹いっぱい食べてもたった500円。デザートのブリヌイを食べながら今後のことを考える。
パスポートなんて結構痛い出費だな、けれど5年用にしといてよかった。そんなことを考えていたらスマホが鳴った。見知らぬアカウントからフェイスブックにてメッセージが来たのだが、中身はキリル文字でよく分からない。グーグル先生にお願いして翻訳してもらうと、ウクライナ語で「あなたのパスポートを拾いました」と書いてある。なんだと!!
パスポートの名前をみて検索したようだ。すぐに感謝の言葉と引き取りたい旨をウクライナ語に翻訳して送る。すると電話番号が送られてきて、電話しろという。ウクライナ語もロシア語も分からないのでメッセージでやりとりしてほしいと返しても、電話しろの一点張り。しょうがないので宿に帰ってザーニャに助けを求めることに。
帰宅そうそう、ザーニャは何を飲んだ?と聞いてくる。それどころじゃないのだが、オレンジジュースと答えると、ちょっとがっかりした模様。今晩は必ず飲みなさいと念押しされた。
ザーニャにパスポートのことを伝えると、ちょっと渋い顔をした。周りにいたウクライナ人滞在者とウクライナ語で何か話す。なんのことか全く分からないけれど、とりあえず雲行きは怪しい。
ウクライナ人の見解では、この拾った本人が犯人ではないか、そして引き渡しにお金を要求されるのではないか、とのことだ。
威圧感を出すために、男の人が電話をかけてくれた。相手は女性の声。もちろん、何を言っているのか分からない。話がスムーズに行かないのか、しびれを切らしたザーニャが受話器を取り、引き取り場所を聞き出す。
電話の後、うーんとなるウクライナ勢。説明によると、これは物凄く怪しい。引き渡しにお金はいらないと言うが、お気持分頂いてもいいわよと相手は濁したそう。それがいくら欲しいのかが結局分からずじまい。そして、引き取り場所に車じゃないといけないようなキエフ郊外を指定してきた。しかも治安が悪いエリア。とてもじゃないけれど外国人の私1人じゃ行けないという。
スリも多いが、こういった取引も日常茶飯事らしい。結果、ザーニャのお兄さんが友達と連れ立って取引に出向いてくれることに。時間は朝11時。意外と健全な時間帯だ。
私も行きたいと申し出たが、外国人の私がいると足元をみられるかもしれないから連れていけないとのこと。深夜特急で同じようなシチュエーションがあったのを思い出し、まさか相手はマフィア?!とビビったのだけれど、ザーニャ曰く相手はただのチンピラよ、危険なんてないとのこと。高い値段をふっかけられたら諦めるから心配するなと慰められた。
警察には頼れないのかと聞いてみたところ、みんな口を揃えてウクライナ警察は信用できないという。警察に通報しても動いてくれないし、警察が下手に動いて相手にバレたら、逃げられてパスポートは一生戻ってこないそう。なるほど。
結局私は宿で待機することになった。
翌日、ドキドキハラハラしながらお兄さんの帰りを待つ。小さい宿なのでみんな事情を知っているのか「大丈夫か?」とか「どうなってる?」みたいな声をかけてくれる。あと、気分が落ちるときは甘いものをと思うのか、なぜかみんなチョコレートをくれプチバレンタインみたいになった。ザーニャは相変わらず「今晩は飲むのよ!」とそればっかりである。
12時ごろお兄さんが帰宅。手には私の緑のポシェットが!!
中身を確認すると、やはり現金の1万円はなくなっていたが、他のものはそのまま入っている。パスポートはもちろん、宿の鍵も。
お兄さん(ザーニャのお兄さんなので正確にはおじさん)にどんな感じだったか聞くと、古いビルの一室で取引だったそう。相手は電話の女性ではなく男性。危険はなかったかと聞くと、銃でドカンと打ってやったぜ!ハッハッハー!と冗談で返された。とりあえず危ないことはなかった模様。
もちろんお金は要求された。その額200フリヴニャ。日本円換算すると約800円である。
日本人的感覚では「800円、安!!」であるが、ザーニャは「高すぎる。50フリヴニャ(200円相当)が相場。出し過ぎよ!」と憤慨し、おじさんは怒られていた。
私としては800円で済んで万々歳である。パスポートを再発行したら1万円以上はかかる。
800円分返すのはもちろん、見ず知らずの私のために時間を割いてくれたことへの感謝を含めて、上乗せしたお金を渡そうとしたら、「いいか、ダーリン。返すのは800円分でいい。俺たちは悪いやつじゃないからな。それ以上のお金はいらないぜ!」とクールに断られた。おじさんカッコイイ。。
ということで、事件は一件落着。パスポートは無事私の元に帰ってきた。
お返しはいらないと言われたものの、やはり何かの形で恩返ししたかった。数日後、ちょうど”女性の日”という祝日があり、女性にお花やチョコレートを渡すイベントがあるという。私もお世話になったザーニャやナターシャにお花を渡す予定だったので、それに便乗しておじさんにもちょっと良いウイスキーを買ってみた。
「今日は女性の日なのに逆にもらっちゃったよー」なんて少し照れながら今回は受けっとってくれた。(翌日、おじさんではなくザーニャが「たくみ、乾杯しましょ!」なんて言いながら飲んでいたのは後日談。)
***
今ウクライナはEUとロシアの間で宙ぶらりんな状態が続いている。
国内で親欧派・親露派に別れ政治は混乱。経済的に頼りにしていたロシアからは天然ガスの供給を止められたり、比較的豊かなクリミアを占領されたり。ソ連時代からの負の遺産、チェルノブイリ原発事故の後処理もまだ終わっていない。
西のEUに助けてもらうこともできず、国の経済はかつかつ。国民の平均月収は2万円ほど*2パスポートの取引で渡した800円もバカにならないそうだ。働いても稼ぎにならないから、若者はスリなどの軽犯罪に手を出してしまう。今回私がスリにあったのにはこんな背景があったことをザーニャはウィスキー片手に語ってくれた。
私の話になり、今までカナダやニュージーランド、オーストラリアをうろうろしながら働いてきたことを話すとザーニャは驚いた。ウクライナ人は他国で就労ビザを取得することが難しく、隣国へ逃げようとしても働けないから国を出れないそう。ザーニャは宿の経営をしているので貧困してはいないけれど私のように自由に海外旅行するほどの余裕はないそう。私の分まで世界を見て楽しんでねと言われたことが今も印象に残っている。
今回、ウクライナでパスポートを盗まれた。正直かなり焦ったし「ウクライナめ!」と悔しさのあまり国を逆恨みしそうにもなった。けれど私はウクライナが大好きだ。
今回のことで感じたのは、国を好きになるかどうかっていうのは、その国に好きな人がいるかどうかなんだということ。
私はウクライナでたくさんの良い出会いに恵まれた。
ザーニャやおじさん、ナターシャはもちろん、他の宿泊客にもたくさん良くしてもらった。お客さんのほとんどは地方からキエフに仕事を探しに来ている若者で、地元のことや仕事の話をたくさんしてくれた。
他の場所では日本語を勉強しているウクライナ人の学生さんと仲良くなって、観光案内してもらったり、一緒にヨガに行ったりした。将来は日本語の先生になって、ウクライナと日本を繋ぐ架け橋になりたいという。
毎日通ったプンザハタでは、店員さんたちが顔を覚えてくれて、同じものしか注文しない私に「これ美味しいから食べてみろ」と違う料理をオススメしてくれたり、英語や日本語で会話しようとしてくれたりした。
ウクライナ在住の日本人の方々とも知り合いになって、一緒に鍋を突きながら、ウクライナに住むのも結構大変なんだけれども、やっぱり好きなんだよね、人が優しいんだよね、とウクライナへの愛を伝えてくれた。
”ウクライナ”と言われて真っ先に思い浮かぶのは、出会ったみんなの笑顔だ。
先で述べたように、ウクライナは国としてたくさん問題を抱えているが、それはウクライナだけのせいではない。ロシアとEUという大国たちの板挟みにあうような世界情勢、歴史的背景にも理由があり、正直、ウクライナは可愛そうだとも思う。このような事情も彼らとの出会いで人ごとではなくなり、ただの傍観者から彼らの友人としてなんとかしたいと考えるようになった。
私は彼らのことが好きだし、彼らの住むウクライナのことも同じように好きだ。すべてひっくるめて心の底からウクライナに行ってよかったと思う。
観光客として、国の煌びやかな部分をみたり、歴史や文化的な背景を知ったりすることも楽しいけれど、人との出会いというのはそれ以上の価値があると思うし、これからも世界中に友人を増やし続けたいと思うきっかけになったウクライナであった。
*今回私が狙われたのはやはりフードをかぶっていたからだと思います。視界も聴覚も制限されてしまうので、寒い時は帽子をかぶることをオススメします。
*領事館の方にも注意喚起されたのですが、ウクライナでは路上でのスリだけでなく、宿での窃盗も多いそう。私は幸いなことに人に恵まれましたが、そういうこともあると念頭に置いて行動することは大事だと思います。
*おじさんの話によると取引はビルの一室で行われたそう。しかも相手は男性。これに私1人で行っていたとしたら、、考えるだけで怖いです。万が一このような事態に巻き込まれても1人では行かないこと。命より大事なものはないですから。
誰かの役に立ちたい欲
自己啓発書なんかを読んでいると、人間は人から認められたい、承認欲求というものがあるらしい。
良いことをして褒められたい、誰かに必要とされたいなど、色々な欲求が絡んでいるようだが、そんな欲の中に”誰かの役に立ちたい欲”というものがある。
私は別に悪人であるわけではないので、世界みんなが困ればいいさ、みたいなチープな悪役のような思想は一度も持ったことはない。
しかし同時に、自分の利益を顧みず、これが誰かの役に立てれば光栄だ、とも思ったことがなかった。
幼い頃、将来の夢は?とお決まりの質問をされた。怪我や病気で困っている人を助けたいからお医者さん、看護師になりたい。弁護士になって困っている良い人を助けたい、なんて隣の子に言われたらちょっぴり引いている自分がいた。
お金持ちになりたい、サッカー選手になりたい、スチュワーデスになりたい。その先に何がしたいかは分からないが、なんとなく自分の好きなもの、やりたいことに従って生きている方が子供ながらに全うな人間なように感じていた。
歳をとるにつれて、社会というものがわかってくると、引くわーということは少なくなったが、やはり自分の身を呈して、困っている人を救おうとしている人たちを見ると、すごいなー、なんだか違う人間だなと感じていた。
自分のために生きて何が悪い。
人生は限られている。その限られた時間を自分のために精一杯使おう。そう思って、心の赴くままに好きな事ばかりやってきた。
正直に言うと、自分の行く先が分からなく、むしろ他の人のために!と使命感の溢れてやることが決まっている人を羨やんだことも何度かある。
それでも、自分は自分だ、私は自由なんだ、とワクワクすることを探して、選んできた。
***
後、数ヶ月で24歳。
ハタチを過ぎたら人生早いよーと先行く人たちに忠告されてきたように、毎日が加速した。
ちょっと前に成人式を迎えたような気がしてたら、毎日が飛ぶように過ぎて、知らぬ間にもう”大人”になっていた。
将来の夢は?と聞かれたら間違いなく”幸せになりたい”と私は答える。
もっともっと幸せになりたい。貪欲で自分のために生きていることには変わりはない。
けれど最近、その”幸せ”の中に他の人の幸せが含まれても良いんじゃないかな?という気がしてきた。
他者の役に立ちたい、という大きな気持ちではまだないが、自分のできる範囲で、誰かが私の存在によって助かった、ちょっと幸せになった、そんなふうに思ってもらえたらなんだか良いなと思い始めた。
きっかけは正直わからない。今まで自分が色んなところで助けてもらったから、今度は助ける側になってみたい。今までは後ろ盾のない不安定な自由だったけれど、経験と自信がついた今の私は自由かつ心に少し余裕を持てるようになった。
もちろん、たくさんの良い人たちに出会って、自分もこんな風になってみたいなとも思った。良い人は総じてキラキラしていて温かい。
人の為に自分の大事な時間を使うなんて想像できなかったけれども、やってみたい、そんな自分もありかな、と小さな理由がひっついて自分の気持ちを動かしているように感じる。
***
もちろん、こんな自由人が経済的に安定しているわけではないので、全てをボランティアで何かをすることはできない。もちろん新しいことを始めるならビジネスとして、自分の利益プラスαで何か誰かに助けになれば良いと考えてる。
何か大きなことを打ち上げたいな、と意気込んでいたら、相方の吉田から良いことを聞いた。
誰かの為、なんて大げさに考えなくても、そこにあるだけで誰かの為になっていることはたくさんある。
たとえば、自分がカフェで過ごす時間が好きだから、自分好みのカフェを開いてみた。消費者でいられなくなって、自分で展開してみたということはよくあるビジネスのスタートだと思う。そのカフェがいつしか穏やかな時間を過ごす、誰かの憩いの場所になっていた。誰かに、あー、ここに良いカフェがあってよかったわ、なんて思ってもらえたら、意図せずともその誰かの役に立っている。
自分の為に始めたことが廻り回って誰かの役に立っちゃってること、それが例え「ありがとう」とわざわざ言葉で表されることでなくても、あるはずだ。まだ、大きなことはできなくとも、そういった自分ベースの人助けが生まれれば良いな。
転じて、自分のアウトプット、あわよくば気の合う友達探しの為に始めたこのブログも何かの形で誰かの為になれば良いなー、とこっそりと願う。
エストニアでキャッスレス対応してもらえなくて自分のブロマイドを生産した話。
世界的にキャッシュレス化が進んでいると有名なエストニア共和国。
夜行バスでサンペトロブルクからタリンに降り立った。
まずは何よりトイレに行きたい。
しかし、トイレの使用には30セントのコインが必要とのこと。
結構緊急事態だったので、ユーロを持っていなかった私は、すぐにATMで20ユーロ下ろす。
しかし、出てきたのは20ユーロ札だ。
事が起こったのは朝5時半。チケット売り場もキオスクも閉まっている。開店は7時だ。1時間半も待てる余裕はない。
待合の人に小銭と交換してくれないかと頼むが、20ユーロが大きすぎる。誰も替えれない。
ロシア人らしき人にルーブルコインとユーロを替えてくれないかと頼むが、ここはエストニア。誰もルーブルなんて欲しくない。
外に出て周りを見回ったが、こんな朝早くから開いている店はない。もちろん公衆トイレもない。絶望的だ。
6時、キオスクが品入れの為に少し開いていたので、営業時間前を承知で、声をかけてみる。案の定、開店前だから出ていけ、と一点張り。
しかし、こちらも緊急事態なのだ。話を聞いてくれと懇願する。
英語が分からないのもあって、おばちゃんも焦り、最終的に声を上げて怒られる。
結局コインには替えてもらえない。周りの待合客の目線が痛い。涙が出る。
どうして、トイレ如きが使えないのか。エストニアはキャッシュレス社会じゃなかったのか。
そんなとき、希望の光が。
ロシアでもよく見かけた、即席のプリントマシーン。
インスタグラム等から写真を選んで印刷できる。
「誰がこんなところで写真印刷したいねん」ちょっと小馬鹿にしていたけれど、よく見ると、お札の入り口があるではないか。
写真1枚1ユーロ、印刷は2枚から可能。
もちろん写真なんて欲しくない。
けれど、今は非常事態。コインが手に入るなら、もう何でもいい。繰り返すが、緊急事態なのだ。
寝不足の重い頭と、ギュルギュル唸るお腹を抱えた私は決断した。
20ユーロ札を恐る恐る差し込む。
インスタグラムIDを入れる。
8つしかない投稿から、手早く、2枚を選ぶ。
印刷する。
機械の音がいちいち大きい。
静まり返った早朝、寝ている人も多い。
周りの視線が痛い。恥ずかしい。
ガラガラと2ユーロコインが溢れ出る。
ついに、ついに、手に入れた!お腹は爆発しそうだ。
むしり取るように、写真を掴み、走る。
こうして、2枚のキラキラなブロマイドがここにある。
1枚1ユーロでいかがでしょうか?
P.S.
みなさま、北欧各国はキャッシュレス化が進んでいると有名ですが、もちろん100%ではございません。緊急時に備えて、小銭を含むいくらかの現金を持ち歩くことをお勧めいたします。
ちなみに、後日、スウェーデンを訪れた友人は、スウェーデンでは上のようなトイレでもキャッシュレスだったよ、と情報が入りました。スウェーデン行きたい。。